2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」
 
第二回と第三回講義 (20081014日と20)
 
§2 Quine「経験主義の二つのドグマ」(1951『論理学的観点から』1953)

 
引用;Quine, From a Logical Point of View, Harvard U. P., second edition, 1980
クワイン『論理学的観点から』飯田隆訳、勁草書房(以下の引用はこの頁数)
 
ここでは、まずはクワインの「経験主義の二つのドグマ」の内容紹介し、その後その検討をおこなう。全体は、77段落、6節からなる。
 
■冒頭の段落で論文の内容を要約している。
経験主義の二つのドグマと、その批判からの二つの帰結が示される。
「現代の経験主義empiricismは、は、二つのドグマによって大いに条件づけられてきた。その一つは、分析的なanalytic真理、すなわち事実問題とは無関係に意味に基づく真理と、総合的なsynthetic真理、すなわち事実に基づく真理との間に、ある根本的分裂があるという信念である。もう一つのドグマは、還元主義reductionism、すなわち、有意味な言明はどれも、直接的経験を指示する名辞からの論理的構成物と同値であるという信念である。どちらのドグマにも根拠がないと私は論ずる。これらのドグマを捨て去ることの一つの結果は、あとで見るように、思弁的形而上学と自然科学とのあいだにあると考えられてきた境界がぼやけてくることである。もう一つの結果は、プラグマティズムpragmatismへの方向転換である。」(前掲訳31
 
ドグマ1:「分析的真理と綜合的真理の間に根本的な分裂がある」
分析的なanalytic真理=事実問題とは無関係に意味に基づく真理と、
綜合的なsynthetic真理=すなわち事実に基づく真理
ドグマ2:還元主義reductionism
=「有意味なmeaningful言明statementはどれも、直接的経験immediate experienceを指示する名辞からの論理的構成物と同値である」という信念。
 
2つのドグマを捨て去ることからの帰結
帰結1:思弁的形而上学と自然科学とのあいだにあると考えられてきた境界がぼやけてくること。
帰結2:プラグマティズムpragmatismへの方向転換
 
第一節、分析性の背景
■(第2段落)カントの分析的と綜合的の区別は、
ヒュームの、観念の関係と事実問題の区別に対応
またライブニッツの理性の真理と事実の真理の区別に対応。
■(第3段落)カントの区別への批判
カントによる分析的言明の定義=「主語にすでに概念的に含まれている以上のものを主語に帰属させることのない言明」
この定義の欠陥1:主語述語形式の言明だけに限定されている。
この定義の欠陥2:「含む」containmentという比喩の域を超えない概念に訴えている。
 
「カントの意図――それは、彼の定義よりも、分析性の概念を彼が実際に使用する仕方からのほうが明瞭なのであるが――は、次のように述べ直される。すなわち、ある言明が分析的であるのは、それが事実とは独立に、意味によって真であるときである。(32)
「この線を追求して、ここで前提されている意味meaningの概念を検討することにしよう。」
 
■意味と指示の区別の確認
●意味meaning と名指しnamingの区別 
具体的な単称名辞、「宵の明星」と「明けの明星」、
「スコット」と「『ウェイヴァリー』の著書」
抽象的な単称名辞、「9」と「惑星の数」(入江:現在は「8」)
 
●一般名辞についても、内包intentionと外延extention(あるいは、内示connotationと表示denotation)の区別
 「心臓を持つ動物」と「腎臓をもつ動物」 
 
■(第8段落)意味と指示が区別されるならば、意味そのものはなくてもよい。
「一旦意味の理論が指示の理論からはっきりと区別されるならば、意味の理論の主要課題が言語的形式の同義性と言明の分析性の二つだけであることは容易に気づかれる。正体不明の中間的存在者としての意味そのものは捨てられてよい。」(34)
 
■分析的言明の二つのクラス
「論理的に真である言明」:例「結婚していない男は、だれも結婚していない」
「「ない」「もしも」「かつ」といった論理的小辞が前もってリストアップされていると仮定すれば、一般に、論理的真理とは、真であり、かつ、論理的小辞以外の構成要素をどのように再解釈しようとも真でありつづける言明である。」(35)
 
分析的言明の第二のクラス:例「独身男はだれも結婚していない」
「同義語(synonym)を代入することによって、論理的真理に変えることができる言明」
 
「この特徴づけが<同義性>(synonymy)の概念に頼っているかぎり、我々はまだ、分析的言明の第二のクラスをきちんと特徴付けたことにはならず、それゆえ、分析性一般についても同じことがいえる。
 
第二節、 定義
 
■定義について、クワインは、次の三種類のタイプを考える。
定義的活動1:以前から存在している同義性を報告する活動(辞書編纂者の仕事)
定義的活動2:カルナップが解明と呼ぶもの(先立つ同義性に依存している)
定義的活動3:新規の記法を規約として導入すること
 
「形式的な分野でも非形式的な分野でも、定義――新しい記法notationを規約によって明示的に導入するという極端な場合を除けば――がそれに先立つ同義性の関係に依存していることがわかる。定義という概念が、同義性と分析性への鍵を提供するわけではないことがわかった以上、われわれは、同義性についてもっと詳しく検討することにし、定義については、これ以上触れないことにしよう。」(42)
 
第三節、交換可能性
 
■同義性synonymy=真理値を変えることなき交換可能性interchangeagility
「ひとつの自然な提案は、ふたつの言語形式の同義性とは、それらがすべての文脈で真理値を変化させることなしに交換可能であること――ライブニッツの用語でいう、真理値を変えることなき交換可能性(interchangeability salva veritate)—にすぎないというものである。」42
 
ただし、「同義性の試金石となっている真理値を変えることなき交換可能性は、単語の内部での断片的出現にたいしては適用されない。」43
例えば、「独身」=「結婚していない男性」であるが、「「独身」は漢字二文字からなる。」には適用できない
 
認知的同義性cognitive synonymy
ここで問題になっているのは、「認知的同義性」であり、「心理的連想や詩的特質における完全な同一性という意味での同義性ではない。」(43)
 
「分析性」を前提して、「認知的同義性」を説明すると次のようになる。
 
「「独身男」と「結婚していない男」が認知的に同義であるというのは、言明
(3)        独身男のすべて、かつ、独身男だけが、結婚していない男である。
分析的であるということにほかならない。」44
 
「分析性」の説明を前提することなく、「認知的同義性」を「交換可能性」を用いて説明できるだろう?
■外延的言語extensional languageにおいて、交換可能性は認知的同義性の十分条件ではない。
「真理値を変えることなき交換可能性は、どれだけの豊かさをもつかが特定されている言語と相対的にしか意味をもたない。」46
「一座述語と多座述語を不定多数もっており、これらの述語は大部分、論理外の主題についてのものである。これ以外はすべて論理的語彙であるとする。原子文は、各述語の後に一つの以上の変項「x」、「y」などが続くものである。複合文は、原子文から真理関数(「でない」、「かつ」、「または」など)と量化によって作られる。実は、こうした言語は、記述やまたそれだけでなく単称名辞一般の恩恵にあずかることも出来る。こうした名辞は、周知の仕方で文脈的に定義可能だからである。クラスやクラスのクラスなどを名指す抽象的単称名辞でさえ、もともとの述語の中に、クラスへの帰属関係を表す二座述語が含まれていれば、文脈的に定義できる。こうした言語は、古典数学を表現するのに十分でありうるし、科学的叙述一般にも十分でありうる。ただし、後者が、反事実的条件法や「必然的に」のような様相の副詞といった論争の的となる言語的手段を含むときには、その限りではない。こうしたタイプの言語は、次の意味で外延的である。すなわち、外延的に一致する(つまり、同じ対象について真である)二つの述語はどれも、真理値を変えることなく交換可能である。
 
このような外延的言語では、「心像をもつ動物」と「腎臓をもつ動物」の交換可能性と「独身男」と「結婚していない男」の交換可能性の区別がつかない。
「「独身男」と「結婚していない男」の間の外延的一致が意味に基づくものであって、「心臓を持つ動物」と「腎臓をもつ動物」のあいだの外延的一致のように、単に偶然的な事実によるものではないという保証は、ここには何もないのである。」47
 
これを区別するには、
 「必然的に、独身男のすべて、かつ、独身男だけが結婚していない男である。」
 「偶然的に、心像をもつ動物のすべて、かつ心像をもつ動物だけが、腎臓を持つ動物である」
 
という表現が可能でなければならない。
しかし、これについて、クワインは、次のように述べている。
 
「もしも言語が、先ほどのような意味をもつ「必然的に」という内包的副詞や、同様の働きをする小辞を含んでいるならば、こうした言語における真理値を変えることなき交換可能性は、認知的同義性のための十分条件を与える。だが、こうした言語が了解可能であるためには、分析性の概念がすでに先立って理解されているのでなくてはならない。」48
 
{なぜ、「必然的に」という内包的副詞や同様の働きをする小事を含んだ言語を了解するためには、分析性の概念がすでに先立って理解されているのでなくてはならないのだろうか。後の講義で、クリプキとの関係で考えよう。}
 
そこで、クワインは、「同義性」に依拠することをやめて、もう一度「分析性」の問題にもどる。
 
第四節 意味論規則 Semantical Rules
 
「「緑であるものは全て広がりをもつ」という言明が分析的であるかどうか私にはわからない。この例に関して私が心を決めることが出来ないということは、「緑である」と「広がりをもつ」の〈意味〉について、私が、不完全な理解、不完全な把握しかもっていないということを本当に示しているのだろうか。私はそうは考えない。問題は、「緑である」や「広がりをもつ」にあるのではなく、「分析的」にある。
日常言語において分析的言明を綜合的言明から区別することがむずかしいのは、日常言語が曖昧であることからくるのであって、明示的な<意味論的規則>を備えた精確な人工言語ではこの区別は明確であるとしばしば言われる。しかし、ここには混乱があることを、私は以下で示そう。49
 
まるで日常言語学派のような発言で、大変興味深い。
 
ここから、これまで積み残していた、分析的言明の第一のクラス「論理的に真である言明」の分析性、および「新しい記法を規約によって明示的に導入するという極端な場合」(42)の分析性の検討が始まる。
 
●提案
「分析性の概念は、言明と言語とのあいだの関係として考えられたものである。言明Sは、言語Lにおいて分析的であると言われ、問題は、この関係を一般的な仕方で、すなわち変項「S」と「L」にたいして、意味あるものとすることである。」(50
 
●問題点
「「S」と「L」を変項としたときのSLにおいて分析的である」という句に意味を与えるという問題が手に負えないことは、変項「L」の変域を人工言語に限ったとしてもかわらない。このことを明らかにしたい。」50
「ようするに、「言明Sが言語L0において分析的であるのは、・・・・」という仕方ではじまる規則を我々が理解できるためには、我々は、それ以前に、一般的関係名辞「において分析的」を理解しているのでなくてはならないのである。」50
 
●解決策1とそれへの批判
「「L0において分析的」という新しい単純記号を規約的に定義するものとみなすこともできよう。そのとき、記号は、「分析的」という興味深い語に光明を投ずるかのようにおもわれないために、ただ「K」とでも書かれるべきである。L0言明から成るKMNといったクラスは、どんな目的のためであれ、また、別に目的がなくとも、いくらでも特定できる。MNではなくて、Kが、L0における<分析的>言明のクラスであると言うことには、何の意味があるのだろう。」51
「どの言明がL0において分析的であるかをいうことによって説明されるのは「L0において分析的」であって、「分析的」や「において分析的」ではない」511
 
L0において分析的」をL0での定義によって説明しようとする解決策である。
この定義は、L0が人工言語であるので、経験に基づくのではなく、規約に基づいている。この規約によって定義されるのは、「L0において分析的」であって、単なる「分析的」や「おいて分析的」ではない。
 
{入江のつぶやき:しかし、規約というのは、そういうものなのではないのか。それでよいのではないか? これは次の論点についても同様である。}
 
●解決策2とそれへの批判
「実際には、われわれは、「分析的」の意図された意義について何も知らないわけではなく、分析的言明は真であるはずだということぐらいはしっている。そこで意味論的規則の第二の形を考察することにしよう。」(51)
 
ここでは、「真である」については問題がないとする.(51)。このとき、真なる言明の全てが分析的に真なのではなくて、「ある言明が分析的であるのは、それが(単に真であるだけでなく)意味論的規則によって真であるときである。」52ということになるだろう。
 
「それでも、何も前進があったわけではない。説明されていない語「分析性」に訴える代わりに、ここでは、説明されていない句「意味論的規則」に訴えているだけのことである。」52
「意味論的規則を他のものから区別するのは、「意味論的規則」という見出しのもとに現れているという事実のみと思われる。そうすると、この見出しそれ自体は無意味である。」52
 
{入江のつぶやき:しかし、意味論的規則を規約するというのは、そういうことなのではないのか。それでよいのではないか?クワインが、規約による定義に、日常的な「分析的」の用法との連続性を求めているので、不足を感じるのではないか。}
 
 
●結論
「一般に、真理が、言語と言語外の事実の両方に依存するということは、明白である。「ブルータスは、シーザーを殺した」という言明は、世界が何らかの仕方で別様であったならば偽となろう。だが、もし「殺した」という語が「生んだ」の意味をもっていたとしても、この言明は偽となる。こうして言明の真理性が、言語的要素と事実的要素とに分析できると一般に想定したくなるのである。この想定のもとでは、事実的要素が無であるような言明が存在し、そうした言明が分析的言明であると考えるのが、理にかなっているように思えてくる。しかし、こうしたことがどれもア・プリオリには理にかなっているとおもえようとも、分析的言明と綜合的言明とのあいだの境界というものはまだ引かれてはいない。こうした区別がそもそも立てられるべきであるというのは、経験主義の非経験的ドグマであり、形而上学的信条なのである。(55
 
クワインは、分析的言明と総合的言明の区別が出来ないことを証明したと考えているのではなくて、区別がまだ成されていないことを証明したと考えている。それゆえに、この区別が、偽であるとして批判しているのではなくて、「形而上学的信条」「非経験的ドグマ」にとどまる、といって批判しているのである。
しかし、このドグマを、捨てることを、クワインは主張しているようにおもわれる。なぜなら、形而上学的信条を捨てることが経験主義の立場だからである。
 
{入江のつぶやき:ここで、「ア・プリオリには理にかなっている」というのは、どういう意味だろうか。}
 
■第五節 検証理論Verification Theoryと還元主義Reductionism(二つのドグマの関係)
ここでは、「意味の検証理論」にもとづいて、「分析的言明」を「いかなる場合でも確証されるという極限的場合」であるとして説明する試みが検討される。
ここで「意味の検証理論は、パース以来顕著となってきた理論である」(56)とあり、クワインが、意味の検証理論をプラグマティズムの流れで理解していることがわかる。
 
■検証理論による言明の同義性の説明
「検証理論がいうことは、二つの言明が同義であるのは、それらが経験的な確証(confirmation)あるいは反証(infirmation)に関して同様であるとき、かつ、そのときに限られると言うことである。」56
 
「言明を単位として考える根源的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59
 
カルナップは、根元的還元主義をのちに捨てるが還元主義のドグマをもちつづける。
 
還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である、という考えの中にいきのこっている。私の反対提案は、本質的には、『世界の論理的構築』における物理世界についてのカルナップの説に由来するものであるが、次のものである。外的世界についてのわれわれの言明は、個々独立にではなく、一つの団体(a corporate body)として、感覚的経験の裁きに直面するのである。(61)
 
還元主義のドグマは、・・・もうひとつのドグマ――分析的言明と綜合的言明との間には、分裂があるというドグマ――と密接に関連している。・・・つまり、言明の確証と反証について語ることが一般に有意味であると考えられている限り、間の抜けた形で(vacuously)確証される、つまり、事実上何が起ころうとも確証されるといった極限的な種類の言明について語ることも、有意味であるようにおもわれる。そして、こうした言明が分析的なのである。」(61
 
「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である」62
 
「経験的有意性の単位は、科学の全体なのである。」63
 
{入江の疑問:しかし、この「全体」は明確な論理関係、推論関係を構成しているのではないか?つまり、全体としてテストされるのだとしても、それが可能なのは、ある一つの命題が観察と一致するかしないかが、とりあえず確認できることを前提するはずである。}
 
■第六節 ドグマのない経験主義(二つの帰結)
第一の帰結:思弁的形而上学と自然科学は同類
●意味の全体論
 「地理や歴史のごくありふれた事柄から、原子物理学、さらには純粋数学や論理学に属するきわめて深遠な法則にいたるまで、われわれのいわゆる知識や信念の総体は、周縁the edges に添ってのみ経験と接触する人工の構築物である。あるいは、別の比喩を用いれば、科学全体は、その境界条件が経験であるような力の場のようなものである。周縁部でのat the periphery経験との衝突は、場の内部での再調整readjustmentsを引き起こす。いくつかの言明に対して真理値が再配分されねばならない。ある言明の再評価は、言明間の論理的相互関連のゆえに、他の言明の再評価を伴う――論理法則は、それ自身、同じ体系のなかのもうひとつの言明、同じ場のなかのもうひとつの要素にすぎない。一つの言明が再評価されたならば、他の言明も再評価されねばならない。そうした他の言明は、はじめの言明と論理的に連関している言明であるかもしれない。だが、場全体は、その境界条件、すなわち経験によっては、きわめて不充分にしか決定されないので、対立する経験が一つでも生じたときに、どの言明を再評価すべきかについては広い選択の幅がある。どんな特定の経験も、場の内部の特定の言明と結び付けられているということはない。特定の経験は、場全体の均衡についての考慮を介して、間接的な仕方でのみ、特定の言明と結びつくのである。」63
 
●思弁的形而上学と自然科学は同類
「私自身は、素人の物理学者として、物理的対象の存在を信じ、ホメーロスの神々の存在を信じない。また、それとは逆の信じ方をするのは、科学的に誤りであると考える。しかし、認識論的身分の点では、物理的対象と神々のあいだには程度の差があるだけであって、両者は種類を異にするのではない。66
 
■第二の帰結:プラグマティズム
「カルナップやルイスやその他の人々は、様々な言語形式や科学の枠組にあいだでの選択の問題について、プラグマティックな立場をとっている。しかし、かれらのプラグマティズムは、分析的と総合的との間にあると想定された境界のところで終わりを告げる。こうした境界を拒むことで、私はより徹底したプラグマティズムを支持する。[・・・]持続する感覚的刺激に合うように科学的遺産に変形を加える際に指針となる考慮は、合理的たらんとする限り、プラグマティックなものなのである。(69)
 
 
               入江の暫定的なコメント
 
1、疑問点
クワインは、最初の段落で、「分析的なanalytic真理」とは、「事実問題とは無関係に意味に基づく真理」であり、「綜合的なsynthetic真理」とは、「事実に基づく真理」であると区別する。この区別に基づいて、「分析的な真理」の概念を明らかにしようとし、それが不成功に終わることから、この区別ができないと主張し、それにもとづいて、「全ての真理が、総合的な真理である」と主張しようとしているように思われる。
 
しかし、逆の検討も必要であろう。つまり、「綜合的な真理」とは何か、と言う問題である。彼は、それを「事実に基づく真理」と説明するのだが、「事実に基づく」とはどういう意味であるのか、きわめて曖昧である。
もし、この説明がうまく出来ないとすると、そこから、やはり二つの真理の区別は出来ず、それに基づいて「全ての真理が、分析的な真理である」という主張がおこなわれるということは、ありえないのだろうか。
 
2、必然性と分析性の関係
必然性の理解を前提するならば、認知的同義性を理解することは出来る、とクワインは考える。しかし、認知的同義性の理解によって可能になるのは、語の意味の同義性にもとづく分析性を、論理的真理性に還元することだけであって、論理的分析性が理解できなければ、分析性の説明にはならないのである。そして、論理的分析性は理解できないのである。
 クリプキが必然性と偶然性の区別を可能世界論によって説明するときに、分析性の理解を前提せずにそれに成功したように思われるが、それだけでは、分析/綜合の区別を説明することは難しい。それゆえに、クリプキはその区別について言及していない。
 
3、クワインは、アプリオリな認識については、どう考えるのか。
カルナップは、アプリオリな綜合判断を認めなかったので、アプリオリな認識と分析判断は同じ外延をもち、アポステリオリな認識と綜合判断は同じ外延をもっていた。
クワインもこの点では、カルナップと同じ考えであったと思われる。つまり、クワインによる分析/綜合の区別の批判は、アプリオリ/アポステリオリの区別の批判でもあった。
 (クリプキは、アプリオリとアポステリオリの区別を認めているが、分析/綜合の区別についてはどうだろうか?)
 (p.55の「アプリオリには理にかなっている」とはどういう意味なのか?)
4、分析的と綜合的の区別を認める者は、この区別が分析的である、あるいは分析的の定義が分析的である、というだろう。
 この区別を認めない者は、「L0において分析的」とL0において綜合的」の区別が綜合的であるというだろう。
 
5、同義性が成立しないのなら、有意味性も成立しない。
 それは、おかしい。というのが、GriceStrawsonの批判であった。
 
 “In Defence of a Dogma
 
しかし、外延的な同義性ならば成立する。
しかし、そのためには、真理の理解を前提する。